[ 2008/08/30 18:37 ]
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草津にあるR大教授N氏と、中学からの腐れ縁コーポラティブといえばT社のK(本当の名前もKと発音)と、京都は下鴨のyamagaさんで飲んだ。Kとはほぼ同業だが、不動産営業のようなことをが彼のメインワークなので異業種といってもいいだろう。N氏は日本有数のマーケティングの専門家、無論教授なのでMBAの上Ph.dである。僕が建築デザインなので異業種交流会だ。この会は定例化しつつある。もともと東京で知り合った3人だが(僕とKはもちろん鹿児島の同級生)、ひょんなことから皆京都に再集合することになったのだ。 ブランドをつくる、ビジネスを起こす、そこにあるマーケティングのさまざまな手法や裏話をなんとも楽しそうに教えてくれるN教授。実際はかなり手厳しい発言をするのだが、その下にいる学生さんは幸せだと思う。いまからR大受けたいぐらいだ。KはKで、僕よりもラテン的な愉快な男で、彼の携わっている事業について相変わらず熱く語ってくれた。いまは教育体験施設を計画中だそうで、その施設では実際の仕事を子どもたちに行ってもらい、独自の通貨を発行し、小さな社会を運営してもらう。社会体験を娯楽施設=テーマパークとして成立させようというもくろみだ。実例は世界にひとつしかなく、それはメキシコシティーにある。 実はその施設に前の会社がテナントとして入ることになっていて、前の上司がそこに関与しているらしく、メキシコに視察に行って超高級芋虫を食べた話をすでに聞いていたのだが、まさかKの仕事とは思わなかった。世の中はやはり狭い。そんなに狭い世の中だけれど、僕の知らないことは山ほどあって、今日の飲み会で聞いただけでも驚きが数知れずあった。その叡智を吸収して自分のものにするために、タグをつけて分類したくなった。飲み会の時の情報はすごいと思う。携帯pukiwiki・・・かなり欲しい。
 昨日の続き。建築の工業化=部品化と量産化は破綻した。はっきりとここで引導を渡しておきたい。なぜなら「建築市場」というものが登場したからだ。最初は中小企業が寄り集まって、業務の効率化、コストダウン、受注の安定化をインターネットを通して図るだけのものだったかも知れない。しかし、木材のプレカット技術は進歩し、CAD-CAMによる生産が可能になり、積算もいわゆるどんぶり勘定でなくかなり正確に出来るようになり、資材コストや図面情報、様々な技術情報がデータベース化された。 「建築市場」とはそれを、オープンに共有できるようにした組織体のことである。技術情報、さらには価格をオープンにすることは業界的にはある意味で無謀な行為だ。しかし、それはLinuxがソースをオープン化したのと同義であり、逆転の発想による成功への鍵でもある。技術もオープンになることで、逆にしっかりした品質の保証が出来る。その保証はだだの保証ではなく、あらたな金融方式であるエスクロウ金融の担保となる。
たとえば住宅金融公庫方式では竣工後しか融資が下りず、工務店は住宅を建てるにあたり途中の金額を立て替えるしかなかった。あるいは施主が銀行から土地を担保につなぎ融資を受ける必要があった。工務店はそこまでの現金はないし、つなぎ融資では施主への負担が大きい。肝心の工務店や施主にはメリットがない。儲けるのは銀行だけだ。エスクロウ金融とは、品質の保証された工事の出来高に応じて、お金を借りることの出来る金融方式で、工務店および施主の負担は軽減される。 おもしろいのは、蓋をあけてみれば、住宅の出来高部分が担保なのでなく、「建築市場」のオープンで透明なシステムが担保として成り立ってしまったこと。画期的というほかない。徹底したCAD化、WEBカメラを利用した工事管理のシステム、竣工図データーベース(営業ツールにもなる)、それを統合するネットワークシステム。間違いなく、次世代の住宅生産システムだ。いまのプレハブ住宅の生産方式はもはやビジネスとしては旧式すぎる。「建築市場」が次世代として成功を収めつつあるのは、そこに新たなビジネスがあるからだ。 「建築市場」は、苦しむ大手メーカーをよそに、高度な情報化を武器にし「コストダウン」「品質の向上」「スピード化」を在来工法のなかで実現して見せた。もっとも工業化でないと言われていた在来工法のなかでだ。内田祥哉は高度な工業化の先に、日本の民家のような、その土地に根ざした建物の復興を見据えていた。「建築市場」の垣根の低い緩やかなシステム、自身が最適化を繰り返しながら成長するシステムは、そんな未来さえ現実の物にしてくれる気がする。
1977年出版の名作。建築は工業化できるということを高らかに唱い上げ、プレハブ住宅メーカーの台頭を後押しした。簡単にいうと、建築は一定のモジュールに分割され、すべてがモジュール化・部品化できる。その部品を工場生産すなわちプレファブリケーション化することによって、品質の安定・工期短縮・大量生産を可能にするという論。住宅不足の時代に多くの会社がプレハブ住宅事業に着手し、実際に成功を収めている。いや収めたかに見えている。 「質のいい住宅を安く大量に販売する=大量に利益があがるはず」とビジネスサイドは考えた。しかし、プレハブ=安っぽいというイメージはぬぐえず苦戦をしいられているのが現状だ。各メーカーは工夫をこらし、システム追加やさまざまのアイテム追加で、工業化されていない住宅と同じようなことができるようにまで努力を積んできた。これは、完全な自己矛盾だ。工業化住宅は、工業化されていない住宅を突き放すためにできたはずだった。価格は安く、品質はよく、大量に売れるはずだった。内田がこの本を出してからの40年、プレハブ住宅は、価格は高く、品質はそこそこ、棟数は伸び悩んでいる。それどころか、在来工法の自由度を憧れさえしている。
どうしてこうなってしまったのだろうか。実は内田の論は「安く・よく・早く」という工業化論ではなかったのだ。それは、安かろう・よかろう・早かろうであった、当時の住宅(建築)生産を、古来の伝統的にすぐれた構法や生産のシステムを取り戻したいというロマンティシズムに立脚している。プレファブ住宅メーカーは欲に目がくらみ、決定的な読み違いをしたのだ。 結果どういうことになったか。悪い点。各住宅メーカーは決まったパイの中で競合したいるだけ。プレファブ化率(全住宅着工棟数のうち工業化住宅の占める割合)はいつまでたっても15%前後。価格はぜんぜん下落しない。大企業は固定費をそんなに簡単に落とせるはずがない。その無駄な固定費を結果として負担するのは購入者である。ただし、構造安定性は折り紙付なので安心感抜群だ。いま構造屋の不祥事が世の中を賑わせているがその点プレハブ住宅は間違いない。 プレハブ住宅業界は販売の伸び悩みをなかなか解決できないまま迷走している。おのおのがクローズなシステムでがんばってきたが、明らかにその産業構造に問題点がある。サプライヤーと呼ばれる部材メーカーは、同じ商品を微妙に変更してA社、B者に納入しなくてはならず手間が2倍。その手間はコストに跳ね返る。またサプライヤーから工場と工場から現場へと、行き来する輸送コストも無駄である。工業化住宅だから何が何でも工場で作るという発想自体が無意味なのだ。 じゃあということで、現在はなぜかデザイン勝負ということになっている。コルビュジェの時代からあるメディアを利用した古い戦略だ。けれど住宅が<同じ>デザインで売れるということは、車と違ってまずありえない。まずは、家族構成、敷地、土地の方向、隣の家との関係などなど、同じ人間が一人としていないように、住宅も一つとして同じものは本来ありえない。おまけに人間の基本的なモティベーションとして、他の人と同じ鉛筆ぐらいならいいけど<<同じ服はいやだ<<同じ車はいやだ<<同じ家はいやだ、という序列は崩せない。 「オープンシステム」のはずだったのに、クローズドになりカスタマイズ性が無くなったこと、そして産業の構造がオープンに対応していないこと、この2点を修正することこそが問題解決の糸口だ。オープンなシステム、カスタマイズ可能な緩やかなシステムでなければならないのはなにもWebやコンピューティングに限った事ではない。
honahonaさんが年に数回のBagelのイベントで、今日もひやかしにもとい応援に行くはずだったのだけど、娘がおたふく風邪なので安静にということで、子ども2人と僕がお留守番。息子とキャッチボールをして、昼ごはんににゅうめんを作り、退屈なので本屋で間違い探しのパズル本とVジャンプを買って、昼寝をした。盛り上がったのが、PCでのワープロ遊び。いつも使っている、Windowsの「No Editor」という優れもののエディタを使って遊んだ。このエディタはまるで「No New York」のようなタイトルが最高にクールで、かつ、さまざまなコードが操れるWEB管理者・ネットワーク管理やソフト開発者に必携のエディタだ。出鱈目に文章を打ち込むのが楽しいらしく2人で奪い合い。最後のほうでは、ちゃんと文章が打てるようになった。教えてもいないのに。
最後に出来た作品を見せてくれたので公開します。 F君(5さい)の作品。 ねずみがねた いぬがねた ねこがねた さるがねた ぶたがねた ひとがねた やぎがねた うしがねた うまがねた うさぎがねた 一茶も山頭火も凌駕する作品だ。「ひと」が主人公でないフラットな関係性が、現代的である。「ねる」という行為において生物は平等だ。 次に、Tさん(8さい)の作品 ぱぱがゲームするときはさいごにいつもおこられる なぜってままがあまりゲームがすきじゃないから Fはいろえんぴついつもかたづけないそして ままにおこられるF しっかり親を観察している。そして父親思いだ。たしかにFは片付けない。それは親の投影だ。ままはいつも怒っているわけではない。僕が甘いだけである。公言しておくが父はだれよりもゲームが好きだ。
いつも思うのだけど、休日出勤のほうがはかどるのはなぜだろう。それが真なら、週休5日の方が効率が良いことになる。人がいるとうれしくてついついしゃべってしまうから、というだけに過ぎないのだけど。そんなことを思いながら、溜まっていた仕事の処理を終わらせた。ふう。honahonaさんから連絡が入り、娘がおたふく風邪になったとのこと。足早に家に帰り娘をみると、いつになくしんどそうだ。顔もはれていて、痛がっている。僕は小さいころおたふく風邪にかかっていない。移してもらいにわざわざおたふく風邪にかかった友人の家に泊まりにいったこともある(これは記憶に鮮明に残っている)。でもかからなかった。大人になってからかかると大変しんどいという。ここは気合で乗り切るしかない。
 リリー・フランキーによる、古くからの読者には予想もつかなかったベストセラーにして、良い意味で期待を裏切る感動の作品。九州人なら読まずに死ねない。リリー・フランキーをはじめて知ったのは「クロスビート」誌での連載。強烈な毒気のあるキャラクターは一度読むと忘れられない。そんな連載の裏では、こんなことが起こっていたのかと、感嘆させられた。不覚にも電車でうるうるきた。仕事がつまらないとか、人間関係がうまくいかないとか、いろんな愚痴をいうまえに、本当に大切な人を大切にしているのか、人間にとって基本的に大事なことをしっかり守れているのか、自分を振り返ってみる必要性を痛烈に感じさせる。 彼の人生にシンクロする思いがあるから感動的なのではなく、その特殊な生き方を、口語体のわかりやすい力づよい文章がしっかりと説明し、特殊解を超えた普遍性を描き出すことに成功しているから感動的なのだ。両親、家族、白いご飯とお漬物、そんな身近なもの最も大切にするべきという単純明快さこそが現代が失った最大の美徳なのだ。自分の小ささを感じずにはいられない本。お正月はちゃんと帰省して親孝行します。お父さん、お母さん留年してごめん。
世紀を超えての大文豪ドストエフスキーの初期の作品。文豪の作品=難解で難しい、という方程式が成り立つものとばかり思っていたけれど、「わかりやすいが、奥が深く、いろんな読み方ができる」のがやはり文豪の文豪たる所以だ。引きこもり、ニートを百年先取り、捻くれ度合いもホールデン君を50年先取り、未来の予言書だったといわれれば納得せざるを得ないのがこの本である。 自分を棚に上げて、世の中への反感と周囲の人間への敵意を募らせる。何にも出来ないのに自信家、素直になれない症候群、思っているのとつい反対の言葉を口に出す天の邪鬼。そんな主人公が地下に籠って書き連ねた手記は、非常に個人的なものでありつつ、人間ぜんたいのこと、世の中ぜんたいのことを描き出す。世の中が悪い方向でドストエフスキーに追いついた。乗り越える方法もドストエフスキーが知っているはずだ。
 家から見える公園の紅葉も、honahonaさんが手入れする我が家の庭も、飾ってある花々も、とても綺麗に見える日だまりの秋です。だいぶ寒くなってはきましたが、チャーリーにとっては走ってよしひなたぼっこしてよしと最高の季節。そんなのどかな田舎にぴったりなのが、これ。日本語版のタイトルは恥ずかしいのでここには書きません。なんにも起こらない日常が小説になるのであれば、同様に音楽もそんなものがあったっていい。なんにも起こらないけど、美しい景色を見せてくれる音楽があったっていい。グラスゴーの美しい風景のような暖かい音楽。
悪い夢でもみているのだろうか。話題のAJAXを利用したサービスである、Google ローカル(旧名GoogleMap)の表示の速さは戦慄すら覚える。AJAXとは<Asynchronous JavaScript + XML>の略で、「Webブラウザに実装されているJavaScriptのHTTP通信機能を使って、Webページのリロードを伴わずにサーバとXML形式のデータのやり取りを行なって処理を進めていく対話型Webアプリケーションの実装形態。」 のことである。読んでもわからない方、 このページの地図で体験して欲しい。 要するにユーザーとしては、サーバーの存在を感じることなくサクサクと地図が表示され、あたかも単体のアプリのようにデータがローカルにあるように感じる、感じさせる技術のことである。Google Mapから名前をGoogle ローカルへと変更したのは、まるでローカルにファイルが存在するような快適さと、地元ローカルな情報まで掲載される肌理の細かさを表明する自信の表れだ。
そのほかGmailやorkutなど、Google社はAJAXを用いさまざまなサービスを紡ぎ出す。WebをNetscape社が牛耳っていた時代<WEB1.0>は脆くも、誰も予想しないほど早くMicrosoft社よって終わりをつげられ、いまGoogleに代表される<WEB2.0>の時代が幕を切った。それはゆるやかなルールの下の急激な進化であり、われわれユーザー参加型の集合知であり、まったくビジネスにならないと思われていたフリーでオープンなボランティアさえ、ビジネスに変えてしまう現代の錬金術だ。 大地主が小作人から、大きな企業が小さなサラリーマンから、国が国民から搾取する旧世代的の現金の移動方式から、株式・企業のM&Aなど金で金を得るゲームの時代に現代は移行したように見える。そうでなく、真の英知、3人寄れば文殊の知恵の拡大版である人類の集合知が、とんでもないビジネスを生みかけているのは確かである。それはグノーシスであり、バタイユ的混乱でもあり、過去すべての世界中の知識を集合させ何かを生み出そうとする、大きな全体の力である。つまらない株式投資に現を抜かすよりは、<WEB2.0>の未来に賭ける方を選びたい。
 黒田さん、紀宮様さん御結婚おめでとうございます。いまさらですが。お似合いのカップルだと評判ですか(新喜劇の安尾調で)。いろいろと大変でしょうが末永く幸せに。結婚の10年先輩としてお祝いの言葉を述べさせていただきます。僕がただただ心配なのは、黒田さんの車の趣味です。ロータス「エリーゼ」ですか。なんとまあえげつない。給料ではまずローンは返せそうもない値段ですが、そのぐらい学習院に入れるほどの親ならすぐポーンとくれるでしょう。この車にお二人が乗られるのを想像するだけで幸せになれます。このド派手なデザインに、地味な顔立ちのお2人。それこそ由緒正しい品格のある地味さと、なにかを間違ったとしか思えない悪い冗談の「エリーゼ」。そのアンビバレントな状況、対極が生むアウフヘーベンは、かなり刺激的。お二人の幸せのため、そしてエリーゼのために、僕にできるせいのびせいいっぱいのお祈りを。
どうやって自転車に乗れるようになったのだろう。転んだり何かにぶつかったりした記憶が皆さんには残っているだろうか。僕がいまだに鮮明に記憶しているのは、よろけてしまってぶつかったのが実家の向かいのアパートに住んでいた、タクシーの運転手さんの車(よってタクシーそのもの)だったこと。そしてドアに傷をつけたこと。母が平謝りしたのを覚えている。そういえば弁償したのだろうか。白とオレンジのツートーンのタクシーだった。 娘は努力家で泣きながらも一人で猛特訓。乗れるようになるまでひたすらがんばっていた。息子は転ぶのがいやですぐ途中で投げ出す。絆創膏とキズドライを娘が僕のかばんに突っ込んで、「これでもうだいじょうぶ」と息子が自転車に乗る練習を手伝ってくれた。センスは悪くないが根性がない。2・3回乗って「よし・おわり」とさっさとやめてしまう。まったく特訓にならない。乗れずに悔しくはないのだろうか。
少なくとも僕は悔しかったのを覚えているし、娘も同じタイプだ。彼の集中力はたいしたものだが、いま、自転車に興味がまるでないようだ。「乗れなくて困ることがないから乗らない」とクールな彼の背中は訴えている。その後、「サッカーしよう」というのでサッカーをした。サッカーはどうやら好きみたいだ。なんだかんだ言っても、僕としては、こんな一日が一番楽しい。
娘の授業参観の日だった。音楽と道徳が参観の内容だったけど、音楽の授業だけ聴いて帰った。ドストエフスキー「地下室の手記」を参観が始まる前に読んでいたので、道徳の時間は混乱しそうだったからだ。音楽は一生懸命練習したであろう数曲を披露してくれた。合奏は「ドラえもん」のオープニング(有名な「♪〜こんなこといいな」のやつ)だったのだが、明らかに木琴の難易度が高く、木琴の女の子たちはかなりがんばりをみせてくれた。ちなみにうちの娘は鉄琴だった。彼女いわく「鉄琴はかんたんなの」だそうだ。そういえば演奏中も余裕なのかニコニコしていた。 演奏会にいい思いではまるでない。いまの声からは想像もできないだろうが、僕は小学校のときかなりのハスキーボイスだった。「もんたよしのりのまねをしろ」と上級生によく冷やかされていた。音楽の時間ほど憂鬱な時間はなく、歌の発表会などもってのほかだ。だから合奏なら楽器ですむので問題ない。しかし、日頃の評価が低いのか、任される楽器はタンバリンとかトライアングルのみ。簡単だからだ。タンバリンはまだしも、トライアングルは音がチーンとしか鳴らないので、なんだかすごく悲しくなる。そんなことを思い出してしまった。
社長に連れられ事務所の引越し先の物件を見にいく。最近四条烏丸近辺はどうやら地価が急上昇しているようだ。目をつけていたところもどうやら予想の倍ほどで売られているようで、「ありえん金額」と社長も苦笑いだ。物件を見終わった後、元D社の専務とNという不動産会社の偉い人とそして社長の奥様と京都ホテルでお茶。ロイヤルミルクティとおかわりできなこミルク。口がだいぶまったりしてきたところで、お開きかと思いきや、割烹へお食事に。「もう帰ります、仕事があるんで」といったけど、「ごはん食べてからでもいいだろう」ということになりご馳走になる。 蟹(だったとおもう)の昆布締めの突き出し、お造り、鰆の京風味噌焼き、山芋のあんかけ蒸し(茶碗蒸しのなかみがとろとろな感じで)、そしてスッポンのスープ、でご飯とお漬物、柿、と一通り食べた。かなりおいしかった、いやたぶん人生でも相当上位にランクする料理だと思う。そんなおいしい料理を食べながら、歓談した内容が、ここでは書けないようなヤバイ政治がらみの話であったり、出てくる金額が桁違いで目が回りそうだったり、皇族や大企業の会長社長とパーティをよくしているとか、もう僕のしゃべることは何も無い、遠い世界のお話だった。
その内容にあっけにとられ、いらんこといってこの場を乱すまいと口を閉じ、おもに愛想笑い120%、相槌120%の出力オーバー。話題を吸収しようと脳はフル回転。でいながらおいしい料理を分析。そして、わかったことはただひとつ、社長が社長である限りわが社は安泰だ。カフェをするなら僕はコーヒーをいれる係でいいです。それから、もうひとつ、スッポンスープで雑炊を作って欲しかった。卵はとろとろでお願いします。
 なぜ神は善と悪を作ったのか。人間は悪なのか善なのか。解の見えない答えを、悪霊に取り付かれた旅の男と子どものいない寂れた村に住む女性の物語を通して探求するコエーリョ。人間は悪に染まりやすい、染まりやすいだけでなく、悪を意識せず悪事に手を染めることすらある。悪に染まるのは果たして本当に容易いのか、それとも元来悪なのか。アダムとイブの昔、悪い蛇に騙されてからこの方、人間の本質は悪に与していて、それを理性と知性で戒め、善の方向へ向けるのが宗教であり、神=善という一神教の教えの根底にある。 コエーリョはキリスト教を根底に置きつつ、人間の本質をシンプルで澱みの無い力強い文章で読者に語りかける。恨み、妬み、欲望、怒りといった感情のあまり、神父ですら善と悪の区別がつかなくなり、その町全体が狂気による混乱に陥る。混乱しないだけの理性を持ち合わせていたのは、夫の霊と交信できる老婆と、自分と戦い続けたプリン嬢だけであった。混乱の中にあるほんのわずかの希望の光が美しく描き出されている。
 不思議な作家、グレイス・ペイリーの本邦2作目。前回と同じく村上春樹訳。前回の「最後の瞬間のすごく大きな変化」では、凛とした潔いペシミズム、そう、潔いのとペシミスティックという相反する姿勢が同居しながら独自の文体で唯一無二の世界を構築してみせたペイリー。今回のは、実はその「最後の〜」よりも古い作品で、荒々しさや奇妙さが「生」のまま残った、オナモミの種のようなイガイガした感じが新鮮で、難解というよりもインディーポップのような捩れ具合が読書マニアの心をくすぐって仕方が無い。理解するというより、センテンスから雰囲気を察知するような読み方を要求される作品だ。もちろんそんな風に捻くれて読まなくても十二分に楽しめる。 人生の辛いこと、苦しいこと、いやな出来事、そうでもない出来事、不思議な出来事そんなマイナス事項(ペイリー小説にはあまりうきうきするような楽しいことは出てこない)を、「人生のちょっとした煩い」と俯瞰してしまう彼女の包容力、そして冷静ながら捻りを加えた躍動的かつ複雑で魅力的な文章は本当にすばらしい。母としての強さ、政治活動家としての波乱の人生、アメリカに住むロシア系コミュニティという複雑な生活環境などのすべてを濃縮還元したこの作品は、フィクションとはいえ、やはりペイリー自身の投影なのだ。 原文はロシア系イディッシュ語の用法の入り混じった、癖のある文章らしいのだが、そこはさすがの村上春樹(+柴田元幸によるゲラチェックの無敵コンビ)、丹念に練りこまれた訳でグレイス・ペイリーの豊穣さを見事に日本語に置き換えている。前回からもう6年もたったとのことだが、村上氏にしても自作を作りながらなので、大変な作業(でも楽しい作業)だったろう。今回図書館で借りてきてしまったが、きちんと買って読みなおしたい。
 絵本というのは奥が深い。子供向けとはいえかなり楽しめる。子どもの時に読んだ絵本の数より、今自分の子どもに読み聞かせている絵本の数のほうが断然多い。もちろん昔の記憶なんて定かでないけど、実家においてある絵本の数なんてたかが知れている。なかでも、モーリス・センダック「かいじゅうたちのいるところ」は面白い。 寓話的であるがゆえに、子どもの想像力はフルに発揮され、大人はその行間を読もうと努力する。子どもは、母親にいたずらしてごめんなさいと謝ることができるし、大人は母の、家庭の暖かさのノスタルジーに浸ることも出来る。特に気に入っているのが、主人公マックスがかいじゅうたちの王様になって、かいじゅうたちを一晩中躍らせるシーン。読むたびに、Boredomsのスーパールーツ3をはじめて聞いたときの原始的な躍動「なんだかよくわからないけど踊らなくちゃ」によく似た感覚を感じる。絵の迫力、言葉のリズムも子ども向けに分かりやすくシンプルで、だからこそ大人にも様々なことを考えさせる余白を生んでいる。物語をしめくくる最後のページはあたたかく余韻を残し、子どもたちはすやすやと寝るだろう。
 「傷みあり」のラベルの貼られた本だった。本が湿気を帯びて波打っていた。鞄の中に入れていたら雨が降って濡れてしまったのか、それとも半身浴中に読み始めたらなんだか一気に最後まで読みたくなったので、ついつい2時間ほど風呂に入ってしまい湯気で湿気たのか。図書館の返却された本のコーナーにある本は、前の借り手のことまで想像させる力がある。 「古道具 中野商店」は「蛇を踏む」でなく「センセイの鞄」のほうに近い作品で、ダイアログ中心の現代的な小説だ。現代的というのは、平坦である・あまり事件が起こらないし解決しない・方向性がない・日常的であるなどども言い換えてよい最近の小説によく見られる傾向で、角田光代・柴崎友香・吉田修一・江国香織・長嶋有などを読むと共通して感じることのできるスタンスのことだ。もちろんどの作家にも個性はあって、文学をジャンルでくくるつもりはない。柴崎のダイアログによる心象描写は天下一品だし、昔の吉田修一は中上健次の再来をも思わせたりする。しかし、「だからどうってことない」内容は皆に共通する。
ずっしりした骨太な作品や、なにかを考えさせられる作品ばかりが小説ではない。読後の清涼感であるとか、あ、そんな感じわかるわかるといった、身近な小説だって十分小説たりえる。「古道具 中野商店」は「だからどうってことない」内容ではあるけれど、十分に、いやそれ以上に面白い。
 だいぶ気温も下がってきて、家の周りの木々も紅葉を完了させつつある。家から見る庭(隣の公園の敷地なんだけど)もすごく綺麗だ。娘が「庭きれいだね」といって、おもむろに籠をもってきて、「お父さん、秋を探しに行こう」というので、息子とチャーリーもつれて公園に秋を探しに出かけた。ちなみに息子はなぜか蓋つきのビンと割り箸を持参で「いいもん見つけんねん」と張り切る。葉っぱやら、どんぐりやら、石ころ、貝殻(多分だれか捨てたやつ)、などなどを採集して家に帰った。 突然二人で工作を始め、出来上がったのがこれ。息子いわく「秋マシーン」。アンテナとテンキーがついていて、葉っぱパワーで作動する。電池不要のスーパーマシンだ。機能の詳細は不明だが、どうやら九九の問題を出してくれるみたいだ。こどもの発想力にはつくづく関心させられる。
前回の会議を9.11ならぬ<全体会議9.15>とターニングポイントのように大げさに表現し、これからの未来を生き抜くためにどのようにデザイン会社を運営していくかをT社長が熱く語る第2回全体会議もとい<全体会議11.12>が本日某所で行われた。今ひとつ結論は出ていないのだが、よくある会議のように意味のないものではなく、まずまず建設的な方向で話は進んだ。役員にこちらの思いを伝える場として機能したのは、小さい会社だからこそ出来ることかもしれないし、うちの役員の懐の広さなのかもしれない。 とことんプラス思考の人間、ネガティブな人間、いろいろいるなかで、kjくんが突然話を振られて発表した、「(仮)バタイユ的世界観にみるデザインの未来」は、紛れもなく一流の弁論で聞いているだれもがあっけにとられていた。たいした男だ。この日のために「バタイユ入門」を読んでいたし彼のブログも読んでいたので、発表の中身が理解できたのだけれど、簡潔で一分の無駄もない言葉の流れは、理解できなくとも皆分かった気になったはずだ。
その後を追っかけて、「(仮)ケインズ流の経済政策の崩壊とアフォーダンス的世界の認知に見るバタイユ再評価のデザインへの適用」というテーマで話をしようと頭をフル回転させて論旨を構築していたのだが、独りよがりで脱線も良いとこなのでまたあとでkjくんとでも話をしようと思いとどまった。 何も決まらない会議というのは実に無意味だと思っているので、最後に皆に大阪と京都の事務所をまとめて京都に移転し、一つの事務所一つのフロアにするのに賛成かどうか、思い切って聞いてみた。「通勤しんどいからいやだなー」という表情は読み取れたが、声に出して意義を唱える人はいなかったので、大方賛成とみてよいだろう。というわけで、地下鉄烏丸近辺で60から70坪の事務所を物色中。古くて渋い、あるいはOAフロアで便利なのもいいなあ。光ファイバーも希望。
前の会社の上司が糖尿病を患いながらも無事に定年退職を迎えられた。いよいよの発展と今後の健康を祝うための宴会が某大阪マルビルで開催された。過去の社員旅行や仕事の風景などいろいろなスライドが上映され、良い時代を過ごされてきたのだなと、大爆笑の渦のなか感心さえしてしまった。思えば、かなり牧歌的な組織で、みんなやさしくていいひとばかりだ。おまけにだれもかれも賢い。しかし、ある種のなれ合いというかハングリー精神の欠如というか、そのたぐいのエネルギーに欠けているような気がする。大企業の安定性は今になってみると、かなり羨ましいのだけれど、それが引き起こす弊害もかなり大きいと思う。牧歌的な安心感に包まれることと、なにかでっかいことをしてやろうという欲望は相反するのだろうか。そのどちらも飲み込みつつ前に進むことはできないのだろうか。
先日配られた社長の伝説のレポートは、相当端折って書くと、バタイユ的価値観が今後の方向性としてデザイン集団が持つべきスピリットではないかという、なかなか興味深いものであった。とはいうものの、バタイユについては、正直にいうとその名前以外ほとんど何も知らないので、土曜の全体会議に向けてひとまず予習をしておこうと、それらしいタイトルのこの本を手に取った。プラトン、カント、ヘーゲル、ニーチェ、までは教科書レベルで登場するし、ハイデガー、フッサール、メルロ・ポンティなどは建築と無関係ではないから(むしろ引用されることも多い)ほんのちょっぴりは齧っているが、バタイユには縁がなかった。 倒錯した複雑な思考は、アカデミー的要素をふんだんに持つ建築の世界とはおおよそ相容れない。「家」を中心とした建築物の「人を守る」という基本的な性質からして、構造的安定と厳格な基準が必要だし、モニュメントや宗教建築などの求心的性格もバタイユの望むところではない。もっと人の側の欲望やエロティシズムの方に立脚し、混乱や揺れ動く様を受け入れながら、崇高なものを終わりなきまま探索するのがバタイユ流の思考だ。西欧的理性を破壊しながら、孤独に突き進むバタイユは当時はごくごくマニア向けの存在であったのだろう。
ただ、現代において西欧的なもの、論理的で理性的なものの存在が危ぶまれて来ているのも事実だろう。論理的で正義感に満ちている権化がアメリカの今で、それを支えるのがキリスト教的価値観である。そんなものはなんの意味もないとバタイユはとうの昔に指摘している。醜いもの、タブーとされているものに目を向けずに、ひとつの正義感で力ずくで消し去ることを否定する。 今、常識的にはまったく理解できない事件が多発している。子どもが子どもを虐殺する、親が子どもを絞め殺す、親に毒を飲ませる、爆発物をクラスで爆発させる、少女を監禁する。それは力ずくで人間の欲望を押さえつけていたものが、どうにも抑えられずに爆発して出てきたのだ。同様に地球だって、ニンゲンハモットカンガエロ、と爆発している。 既存の倫理観によらず、醜いとされる欲望の側に立脚して考えるという行為を行おうとしたのがバタイユだとするなら、今の時代にこそ必要とされているのではないか。「くさいもの」に蓋をせず、奇麗事でかくさずに、泥にまみれて考えよといっているのではないか。建築としてデザインとして、どのように展開していけばいいのか現段階では糸口が見えないけれど、そこには重要なヒントが隠されているような気がする。その有効性を社長が見抜いているとしたら、とんでもないことだと驚愕している。
4年ほど乗ったラシーンがナンバーを書きかえ自宅の車庫にいた。木下君に譲る手はずが整ったのだ。とうとう今日なんだな、と思うとなんだか感傷的になってしまう。夜、木下君が取りに来たので使い方を説明して、軽くドライブして別れた。自分が乗っといていうのもなんだけど、こんなにセンスのいい車は他にない。日産は愛嬌のあるパイク・カーシリーズを捨てデザインコンシャスな路線に打って出た。商売的にはV字回復、出す車出す車デザインも評判がいい。しかし、かっこはいいのはわかるが、Be-1やPAO,FIGAROのように愛嬌があったり、ダットサントラックのように無骨であったり、『味』のある車があってもいいのではないだろうか。ステージアのターボがなくなり、エクストレイルだけが最後の2リッターターボとして頑固な無骨さを貫いている。ランドローバー・ディフェンダー、TOYOTA・BJ41ジープ、ジープ・チェロキーなどの四角い車にどうしてもあこがれる。四角くて安全なハイブリッドカーを誰か開発してください。10年先でかまいません。
 エクストレイルのシガーソケットはハンドルの前にあるダッシュボードポケットの中にある。ゴーン氏のアイデアだそうだ。このダッシュボードポケットにナビの外部入力を延長してケーブルを引いてもらった。iPodなどの外部アイテムを利用するためだ。この電源アダプタが一番安かったので買ってみた。ケーブル巻き取り式で便利、意味もなく青く光るのでかっこいい(実際に隠れてしまうので本当に意味がない)。ちょっと音レベルが小さいのが気になるが、無事音はでました。ほっ。HDDナビなんで、iPodに相当する機能はナビだけでも持っているのだが、使い慣れたiPodのほうがPCと連携できる分いろいろ便利。週末はドライブに行きたい。一人で海に・・・。
 タイトルの「記憶喪失装置」があらわすように、崩壊していく記憶・蘇る記憶、個人のLAのアメリカの記憶の断片を繋ぎ合わせ、狂おしく一途な愛を語る作家である主人公。SF的のようで現実的、自伝のようでフィクション的、もっともアメリカ的でまったく場所はどこでもいい、そんな対立する2項を当然のように同列に扱ってなお物語を一貫させるのは、愛という普遍の欲望なのかそれともエリクソンの類まれなる才能なのだろうか。 偶然にも「村上龍映画小説集」という、映画という媒介を手助けに記憶をたどりながら、愛と欲望を語る本を読んだところだったので、なんらかの共通性を感じた。「村上龍映画小説集」はタイトルのつけ方があまりセンスよくないので損をしているが、「アムニジアスコープ」は読後にも納得できる言葉だと思う。またしても偶然だが、「アムニジアスコープ」のほうも映画がほぼ主題として登場し重要な鍵を握る。その狂気と純粋っぷりは、エリクソンのほうに軍配が。現代アメリカの最重要作家と評されつつも本国では評価が低いとのことだが、それもまたアメリカ的で、喜んで読んでいる日本人の本質的な無宗教主義(というか唯一神を好まない志向)のほうがエリクソンを理解しやすいのはうなずける。アメリカを正しく認識しその未来を的確に予言しつつも、現代アメリカに受け入れられないアメリカ的作家。そのカオスっぷりがエリクソンの真骨頂だ。
近所にショッピングモールが出来た。田舎なのにどこから沸いてでたのか、ものすごい人。国立国会図書館の目の前にある。せっかく良い建物を作っても、安っぽいつくりの張りぼて建築で色も最悪なのが目の前に出来ては台無しだ。中に入っているお店も魅力がない。安っぽいだけ。はあ。またAEONとかが出来るとやらで、内容はどんぐりの背比べ。渋滞を引き起こすだけのこと。もっと意味のある店舗計画はできないものか。安かろう悪かろうがだめなことは、ダイエーの破綻等で証明されたのではないのか。田舎で敷地が広いからといって、安物ロードサイド店舗を安易に作らないでくれ。行政もなんでもかんでも許可おろさないで欲しい。図面みたらしょうもないのすぐわかるだろ。地域社会へ貢献できるような店はきっとあるはずだ。だれも企画出来ないんだったら僕がやるから、仕事をください。
 こんにちはエクストレイル。本日無事納車されたエクストレイルは、インテリキー付、ナビ付、あとは標準仕様のSttである。色も今日の朝までのっていたラシーンとほぼ同じ、一回り大きくなっただけという風情だ。この微妙に日本車離れした色が大変気に入っている。気になっていたサイドモールのグレー色もいざ見てみると、なかなかいい。これからよろしく。そしてラシーン。いままでありがとう。今日は子どもたちと最後の洗車をした、中もキレイにした。本当に良い思い出をありがとう。木下くんのところで可愛がってもらってくれ。娘が結婚するときはきっとこんな感じなのだろう。ピチュウ、ピカチュウ、ライチュウ=パオ、ラシーン、エクストレイルである。この日産3兄弟は、これからものほほんといろんな道路を走り続ける。
いわずとしれたApple社が放つプレゼンツールだ。昔は単体のパッケージもあったように思うが、いまはiWork'05としてPages(今ひとつ方向性がはっきりしない)とセットで8000円ほどで買える。しかしコストパフォーマンスは抜群だ。その使い勝手は某PowerPointの数段上を行く(当社比)。iMovie,iTunes,iPhotoをメディアライブラリとしてシームレスに扱えて、素材をそろえておけばあっという間にプレゼン資料が出来上がる。もちろん内容自身は作ってくれない。あなたががんばる番である。感動的なのは2画面利用時、設定の煩雑さも皆無でミラーリングか発表者用と表示用に分けるかを選べ、特に後者で使ったときは便利この上ない。忘れっぽいあなた、カンペがいつでも欲しいあなた、ぜひこの機能を使ってみて欲しい。今日は実際にその機能を使って発表したのでかなりおすすめできる。ちなみに某PowerPointも同様の機能があるにはある。説明書を読まずにフィーリング・直感で操作でき、やろうと思えば細かいことがいくらでもできる(とくに文字の調整などかなり細かい!)のはAppleのお家芸だ。はじめてMacに触れたときの感動を久しぶりに思い出した。
伽藍とバザールのような思想の話ではない。昨日は息子の通う幼稚園でステージがあって、今日はバザーがあったということだ。ステージは「小人の靴屋」で、年中ともなると長い台詞を覚えたり、楽器を演奏(同じ音しか使ってなかったそうだが)したりと、成長が感動的だ。バザーは、雨が心配されたけどなんとか片付けまで無事完了。目新しいとことろで、吉本から芸人さんたちがやってきて、なかなか楽しかった。芸人さんも幼稚園児の心をつかむのはさぞ大変だったろう。娘は友達と果敢にもサインもらってました。しっかり家族分まで・・・。
わけあって環境をキーワードにしたあれこれを調べているのだが、目を引くのはやはり「ソトコト=LOHAS」である。一時ブームであった環境共生住宅とやらはどこへやら、「ブーム」好きなわれわれ日本人は、いまはデザイン住宅に夢中でメディア受けする建築家を猛烈な勢いで消費している。しっかりもののドイツ人は、環境と教育(シュタイナー、モンテッソーリ)と行政が一体になり、環境共生を一般の生活に定着させることに成功している。そのような中で育ってきた子供たちが作っていく未来と、いまの僕らの子供たちが作っていくであろう未来のどちらが豊かなのか、答えは明白だ。その点では我々大人に重大な責任がある。話をLOHASに戻そう。エコを商売っ気たっぷりに宣伝しまくるこの雑誌、かなりくせ者に思える。環境にいいこと、からだにいいことがたっぷり載っていて、知的有名人がそれを解説し、センスの良さを見せつけてくれる。「エコが商売に結びつけば、世の中はぐっとよくなる」を裏テーマにビジネスのにおいをぷんぷん振りまいている。一見いいことのようだが、ここまで露骨だと逆にその裏側がうさんくさく感じる。もちろんエコ自体は悪いことではない。なにも考えないコンビニ系雑誌より何倍もましだ。 たまたま手に取ったのが「考える人」だった。ドイツの環境共生コミュニティーの話が載っていたので購入した(社費で)。「環境は高くつく」でもその代償を考えると「高くてもいい」。我が国よりももしかすると債務の厳しいドイツは、環境にお金は惜しまない。環境に関する教育もきっちりだ。そんなレポートが掲載されていた。こちらは思想をしっかり伝え、嫌らしさがない。環境を「考える人」へ向けての真摯なメッセージと僕はとらえた。買ったあとで気づいたが、保坂和志と小島信夫の対談ものっていたりして、かなり個人的に気に入っている。いい本みつけたので、kj君に報告したら、お兄さんに既にもらっていたとか。なんだちゃんとブログにも書いてある。「考える人」で考える会でも作ろうかと思案中。
 映画を触媒に夢とも現実ともつかない頼りない記憶を繰り返し繰り返したどりつつ、体を切り売りするような切実さとそんなことさえどうでも良いハードボイルドな諦め、そして「恥」の感覚が、相反しながら混沌と混ざり合うその全体が、まるで映画のような小説。タイトルに「映画」とついていたり、文中に「映画」がいろいろ出てくるからではなく、小説全体が強く映像を意識させる。 自伝的小説という評を多数見かけるが、そういう見方をするのは非常につまらないレベルの読み方である。これは小説なのだから、そんなことはどうだっていいのだ。こういう嘘を平気でつけるの職業が小説家であり、これが本人の青春をちょっとアレンジして書いただけの小説ならとっくの昔に村上龍はネタ切れで筆を置いたはずだ。途切れの途切れの記憶を再構築しながら、小説全体を作り上げていく、その尽きないエネルギーに感心する。
[ 2005/11/01 22:42 ]
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